夜空に君を探した

140文字にならなかったけど言いたいとき用

摂食障害の私がすばるくんの「生きろ」に生かされた日の日記


 私が自由に食事ができなくなって、7年が経った。

 私は中学3年生のときに拒食症になって、治療の途中で過食症になって、そのあとまた拒食症になった。今は普通に生活が送れるぐらいには落ち着いたものの、相変わらずその両極端を1年くらいの周期で行ったり来たりしている。
 拒食症とは、食べたいと思っていても食べることができなくなってしまう病気のこと。反対に、過食症とは自分の食欲をコントロールできずに異常な量を食べてしまう病気のことだ。真逆のようだけれど、私のように両方を経験してしまう人は多い。たとえ常識はずれの大食いであっても、本人が楽しんで食べているなら(栄養のことはさておき)精神的には健康だと言えるかもしれない。けれど、過食症の場合は自分の意志に反して異常な量を食べてしまうので、激しい自己嫌悪や罪悪感で嘔吐したり、下剤を乱用することもある。その影響で私は体にも様々な影響が出た。

  「普通の量を普通に食べる」という簡単なことがどうして何年もできないのかと親には泣かれた。食べ物がもったいないとか、わがままだと叱責され、自分でもこんな自分が嫌になった。でも、いざ食べ物を前にするとどうしても食べられない。勇気を出して飲み込むと取り返しのつかないことをしてしまったような恐怖に襲われて、すぐに体から排出しないと気が済まなかった。

  その反面、過食症になると今度は一晩中ひたすら食べ物を口に詰め込んでいる。もう苦しい、食べたくないと泣きながら食べ物を貪る自分がすごく惨めだった。こんな人生、終わらせてしまえたらどんなに楽だろう。呆然とベランダの柵から地面を覗きこむ夜が何度もあった。


  18歳のとき、私は「病気はなんとかする」と言い張って地元から離れた大学に進学することにした。幼い頃からの夢を叶えるために、どうしても大学で学びたかった。猛勉強の末、後期入試まで粘ってなんとか希望の大学に合格できたときは本当に嬉しかった。それなのに、結局は治すどころか悪化させて大学を辞めてしまった。叶えたい夢が私にもあったのに、自分の弱さで挫折してしまった未練や悔しさ。人生のレールを外れてしまった劣等感と焦り。毎日いろんな気持ちに押しつぶされそうだった。退院後は親に合わせる顔もなく、逃げるように家を出て働いた。やりたくもない仕事をしながら、知り合いも親戚もいない土地で、私は目標も自信も見失った。

 もう私には何もできないんじゃないか。

 そう思うと苦しくて、生きる気力さえ見失っていた。
 

 関ジャニ∞のアルバム、JAMの詳細が発表され、収録曲のタイトルを知ったのはそんなときだった。

 その中に、私の大好きなすばるくんが作詞作曲した曲があった。タイトルは「生きろ」。

 まだ曲を聴く前だったのに、タイトルを見ただけで私は涙が出た。この歌は私のための歌だ、なんてことを本気で思った。発売後、実際に曲を聴いてみると、その力強いタイトルから想像していた歌詞とは少しだけ違っていた。

 「何もなくたっていいから やりたいことなんて
 夢や希望なんて なくたっていい ただひとつだけ
 あなたを生きて」

 ただ「生きて」じゃない。「あなたを」生きて。
 この一言に、私はどれだけ助けられたかわからない。

 「生きろ」というメッセージはとても重い。私のように生きることにくじけている人からすると、それ自体がとてもつらくて苦しいもので、簡単なことではない。ただ「生きろ」というメッセージだったら、たとえ大好きな人からであっても苦しいと感じたかもしれない。でも、この歌詞は違った。「なにもなくたっていい」「あなたを生きて」と言ってくれた。病気を治すこととか、遅れてしまった人生を早く取り戻さないといけないとか、そういうことに力まなくていいんだ、って。もちろんそれは大事なことだ。でもそれよりも「摂食障害の私」を生きて、生き進めばいい。そんなシンプルでまっすぐなメッセージに私は強く励まされた。


 すばるくんのこだわりで、この曲はイヤホンやスピーカーで聴くと各楽器の音や歌声がバンド編成時のメンバーの立ち位置から聴こえてくるようになっている。大好きな関ジャニ∞が目の前で演奏しているみたいでうれしかった。摂食障害と戦いながらの7年間、私は彼らにたくさん救われていた。すばるくんは、私の人生で初めて好きになったアイドルだった。どんなに体調が悪くても、バラエティ番組やライブのMCでは自然と笑っていたし、歌やダンスやバンドのかっこいい姿を見ると幸せだった。心が折れそうになるといつも「新曲が出る」「ライブがある」という楽しみをプレゼントしてくれた。最小限の荷物で家を出た日も、私は関ジャニ∞のライブDVDはすべて持って行った。つらくなったらこれを観れば大丈夫だと思ったからだ。それぐらい大事な人が、こんな歌を作詞作曲してくれて、その大好きな声と演奏で届けてくれた。私はすばるくんのファンでいて本当に幸せだと思ったし、きっとすばるくん自身もそんな人たちがたくさんいることをわかってこの曲を書いてくれたのだと思った。

 

 曲は最後、こんな歌詞で締めくくられている。

「誰でもないあなたを生きて 生きて

 生き進め 生き進め

明日を超え 生き進め

広がる 広がる

目の前 世界が広がる」

 

  今、私の目の前は真っ暗だ。どうすればいいかわからないし自信もない。だけど、私は摂食障害の私を生きる。夢も希望も失った私だけど、そんなものなくなっていいからただ生きてと大好きな人が歌ってくれたから。 この私を生き進んだ先に世界が広がる瞬間はあると、すばるくんが教えてくれたから。この曲を聴いてすぐに変わることができるほど、私は強くない。まだまだ上手に食べられないし、くじけそうになる日もあるだろう。それでもこの曲があれば、絶対に大丈夫。そう思わせてくれた偉大なアイドルに最大限の感謝と尊敬をこめて。

本当は深い「CANDY MY LOVE」と「夏の恋人」の歌詞とMV(考察)

  
 
 女装!!カワイイ!!!!ぐらいのテンションで聴いていたら、ふと思った。この曲、やけに詞が重いと。
 それは2015年の夏に発売された関ジャニ∞の曲、「CANDY MY LOVE」。特にサビの「あなたがいなければわたしの生きている意味なんかない♪」なんて、女装に惑わされるけど実はものすごく暗い歌詞である。昨年冬からのドームツアーでは、なんとアコースティックでやってくれたのですが
衣装に惑わされずにストレートに歌詞を聴かせるアコースティックで、改めてこの歌に闇を感じた。そして、この曲のMVや、アンサーソングである「夏の恋人」の歌詞と照らし合わせながら聴いているうちに、なんとなく私の中での解釈ができた。歌詞とは、詩や絵画のようにさまざまな解釈があって楽しめるものだと思っていて、これから書くのはあくまでも私なりの解釈にすぎないので「こういう聴き方もあるんだな」ぐらいで読んでいただけると嬉しいです。
 
では始めます。(死ぬほど長いです。)
 
 
1∞「あなた」との関係は?

  この曲は「わたし」の視点から「あなた」への想いを歌っている。

  この曲における「あなた」とは、一体どういう存在なのか。それをわかりやすくするため、歌詞の中の「あなた」に関する部分を抜き出して整理してみた。

  • 「逢いたい」「でも逢えない」
  • 「まだ逢ったことないのかも」?
  • 「わたしのためにならなんでもしてくれる」
  • 「ほほえみをあなただけがくれる」
  • 「あなたがいなければ私の生きている意味なんかない」
  • 「まだ見ぬ」
  • 「わたしの」

  まとめると、「逢いたいけど逢えなくて、わたしのためにならなんでもしてくれて、ほほえみをくれて、私の生きている意味」という存在が浮き上がる。

 しかし、これだけでは関係性についてまだよくわからない。歌詞には「わたし」に対してしてくれたことばかり書いてあるものの、意思や言葉が交わされる描写はない。もっとも不思議な点は「まだ逢ったことないのかも?」というすば子のセリフだ。人との関係において「逢ったことないのかも」という表現はあまり使わないだろう。大抵はあるかないかの二択である。例えば、自分にとっては忘れてしまうほど興味のない相手だった場合なら、逢ったことがあるか思い出せなくてこのような言い方をするかもしれない。しかし、この歌詞における「あなた」はそんなどうでもいい存在だとは思えない。では、なぜ「逢ったことないのかも?」と曖昧なのか。

  この不思議な状況が考えられる可能性を考えてみた。 たとえばネットの中で出会った相手だった場合。あるいは相手が芸能人だったりしてこちらだけが一方的に知っている場合。全体を読んでも両方の可能性があり得るものの、今回は後者で読み取ってみることにする。

 「あなた」が芸能人だと考えると、「わたし」が逢ったことはないのに知っていて、逢いたくて、(テレビやコンサートで)ほほえみをくれて、生きている意味。という描写に辻褄が合う。ファンはコンサートに行くことを「会いに行く」と言うことがあるけれど、それが実際に逢うことかと言われたら何とも言えない部分がある。冒頭の「この前逢ったのいつと聞かれても答えられない」というセリフも、そんな気持ちを表しているのかもしれない。

 

2∞意味深な「生きることはリアルね」

  「あなた」がどういう人物なのかを整理したので、次の部分を読んでみる。

友達の笑い声が なぜかむなしくカラダをすり抜ける
生きることはリアルね 知らない誰かがつぶやく

(中略)

ひとりさみしい夜にネットの中のわたしははしゃいでる

友達の数ほどの安らぎ わたしにください

  「つぶやく」は、いまや「ツイッターに投稿する」という意味の言葉としても広く使われている。「知らない誰かが」という主語も含めて考えれば、この「つぶやく」はツイッターのことだろう。この「生きることはリアルね」とは、いったいどういう意味なのか。

 「リアル」は、直訳すれば現実。恋人がいたりして私生活が充実している人のことを「リアルが充実」の略で「リア充」と呼ぶように、リアルとは現実の生活のことを指す言葉でもある。「生きることはリアルね」とは、「生きることは、現実の世界を生きること」であると、ネットという仮想の世界の知らない誰かはつぶやいているのかもしれない。

 リアルが現実ならば、その反対は「非現実」だ。

 これを見ている「わたし」は、まだ見ぬ「あなた」という存在に恋い焦がれてひとりさみしい日々を送っている。けれどそんな彼女にとっては

あなたがいなければわたしの生きている意味なんかない

なのだ。

  芸能人は現実か非現実か。それは難しいテーマだ。この世界には確かに存在するけど、違う世界に存在するとも言える人。リアルじゃない世界の人に恋をして、それでもリアルの世界で生きている理由はあなたしかない。だから強く生きる勇気もあなたからでないともらえない。

 

3∞現実でない場所で逢える彼

 この考察では、歌詞とともにMVの描写も照らし合わせていく。そのMVの中ですば子の恋する相手が登場する場面がある。

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 黒のタートルネック、この人も本気のときなのかしら。。

  このシーンにはそれより重要なことがふたつある。

1.背景の光が七色
 さすがにこれは考えすぎ!と思われそうだけど、とりあえず一旦私の主張を聞いてください!結構ハッキリと七色になっているし、対してすば子の後ろの光はふつうに白なので、やっぱり何か意図があるんじゃないかと思ったのがこの演出(ただ光が偶然にこの色なら、すば子も同じなはず)。七色と言えば言わずもがな、関ジャニ∞のメンバーカラーである。メンバーカラーがアイドルの象徴として使われているのだとしたら、すば子の恋する「あなた」はアイドルだと改めて解釈することができる。
 
2.すば子の天使の羽

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 すば子に羽が生えているのは、この七色の亮ちゃんに逢えるシーンと最後だけなのだ。突然生えるこの羽は、何の意味があるのか?

  天使はよくファンタジーや死後の世界のモチーフとしても登場する。つまり、現実とは違う世界だ。先ほど歌詞に出てきた「生きることはリアル」は、逆に言い換えると「生きていないことは非現実」となる。天使の羽を背負った状態でのみ好きな人に逢えるすば子が意味するものは、「非現実の世界でしかあなたに逢えない」ということ。

 しかも、亮ちゃんとすば子は言葉を交わすこともなく遠ざかってしまう。すば子は触れようと手を伸ばすけれど、亮ちゃんはまったくそんな素振りもなく……。

 ネットの中(=非現実)でははしゃげるのに、リアル(=現実)ではほほえみをくれるのも、生きる意味も、あなただけ。でも、そんなあなたには非現実の世界でしか逢うことができない。

 せつない、、、、!!

 

4∞アンサーソングの二人称問題

 CANDY MY LOVEの解釈が一通り済んだので、次はそのアンサーソング丸山隆平さん作詞の「夏の恋人」を重ね合わせます。

 これが本当に文字通りアンサーしまくっている曲で、まず歌詞がつながっている部分を抜き出してみると

  • わたしのためにならなんでもしてくれる → お前のためなら何でもするよ
  • 強く生きる勇気ください → 勇気なら僕があげるよ
  • 逢いたい → そうだ、会おう
  • せつなすぎるひとりの夜は → せつないの?
となっている。
 従って、この曲の「僕」=CANDY~の「あなた」。しかもCANDY~のサビで「あなたに」と呼び掛けていたパートがすば子だったのに対し、夏の恋人ではその返事になる部分を、MVですば子の想い人として登場した亮ちゃんが歌っているのだ。

 この曲には「君」と「お前」という二つの呼び方が存在する。「お前」のほうはサビの部分で使われていて、CANDY MY LOVEで呼びかけられている言葉に返事をするような歌詞のときに使われている。ということは、「お前」=CANDY MY LOVEの「わたし」と同一人物である(ややこしいので、ここでは代表してすば子ということにします)。対して、「君」が登場するのはそれ以外の部分。「君」は物憂げに携帯だけ眺めているという描写があり、これもCANDY MY LOVEのすば子がネットの中でだけはしゃいでいるという点に一致する。つまり君=お前=すば子(CANDY MY LOVEの「わたし」)になる。

 では、この呼び方の違いは一体なんなのか。それを考えるためにまずはふたつの呼び方の違いを比べてみる。「君」と呼んでいるときは、ただ見ていたり声をかけられずにいるのに対して、「お前」と呼ぶときは呼びかけに答えたり「そうだ、会おう」と言っている。

 「僕」は、CANDY~での解釈で言えばアイドルである。そこにはアイドルという職業としての「僕」と、プライベートな「僕」、ひとりの中にふたつの視点を介在させることができる。そこで、この呼び方の違いを「僕」の立場の違いとしてみる。「お前」呼びのときがアイドルとしての言葉で、「君」呼びのときは一人の男の心情を歌っているときとして考えたい。例えばこれは少し極端な例だけれど、丸ちゃんがよくコンサート中にイッツマイソウルの「君に夢中」の部分を「お前らに夢中だぜ!!」と言って客席を煽ってくれるように。アイドルとしての言葉として「お前」は自然な表現かもしれない。 

お前を

(ただ夢中で愛して)
お前に
(ただ夢のなかで捧げて)
せつないの?
(その瞳に俺だけうつして)
そうだ、言おう
(お前のためなら何でもするよ)
そうだ、会おう

勇気なら僕があげるよ

   アイドルとしての立場からの、ファンであるすば子に向けての言葉なら「夢の中で捧げて」という表現がすごく的確で秀逸だ。「夢中」と「夢の中」をかけているけれど、意味は異なる。アイドルはファンに夢を見せてくれる存在。ただ夢中で愛して、それでも夢の中でしか捧げることができない。

  生きる勇気をくださいと言うすば子に、勇気ならあげるよと言ってくれるアイドルの「あなた」。でも、実際には夢の中でしか捧げることができないので

物憂げに携帯だけ眺める君に

どんな言葉をかければいいの?

 というように、現実では声をかけることができない。だからここではアイドルではない方の「僕」の心情として、お前ではなく君という呼び方に表現が変わっている。

ねえ 僕にしかできないことって何?

いつでも満たしてあげたいから

いつでも満たしてあげたいけれど、実際にはできない。でも、すば子がCANDY~で呼び掛けていた「あなた」はアイドルとしての彼なので、その言葉にはアイドルの視点で返事をしている。

 この曲は、アイドル張本人の丸ちゃんが作ってくれた「ちゃんと声は届いてるよ。逢えないけど、普段の君のことも笑わせてあげたいよ。アイドルの僕にできることがあるなら、夢の中で捧げるし、勇気をあげるよ」というアイドル張本人作詞のアンサーソングなのだ。

 

5∞「夏の恋人」って誰?

 そんな中で唯一、触れようとしてくれる部分がある。

あなたに触れたら夏の日差しに溶けて
消えた。

 ここでだけ「あなた」が出てくる。また新しい呼び方だが、この「あなた」も同じくすば子だとするなら、前述の通り実際に触れることはできないはずだ。

 すば子を含むキャンジャニちゃんは、この曲を発表して、そのあとCDも出していないし活動はしていない(実際にはその年の関ジャニ∞のドームツアーにちょっと出てくるけど)。この曲はアンサーソングなので、そのキャンジャニちゃんに答えている曲だということははっきりしている。ずっと「僕」が答えてきた彼女、つまりはキャンジャニはまさに夏が終わると同時に消えてしまった。タイトルの「夏の恋人」とは、すば子(キャンジャニ∞)のことだ。「溶けて」という表現も、キャンディとかかっているのかもしれない。

 そして歌詞はこう続く。

ずっとこんなこと繰り返すのか
ずっとこんなこと繰り返してる
つかめないお前に首ったけさ
「ごめんね。」 

 この「ごめんね。」を言うのは横山さん。この部分について丸ちゃんは「女々しいセリフを言わせたら一級品だと思ったから」と発言している。「つかめないお前」はすば子であり、つまりファンという存在でもある。逢えないし触れることはできない。そんな相手のことを夢中で愛して夢の中で捧げると言うアイドルの「僕」。そう言いながらも現実ではどうすることもできないことへの葛藤。それについて自問自答しているのか、だれかに揶揄されたのか。そんな切なくて優しい言葉がこの「ごめんね。」なもしれない。

 

6∞「会おう」から「逢おう」へ

 そして曲は最後のサビに入る。

  ここで地味だけど重要な違いが一つある。

  それは、最初のサビでは「そうだ、会おう」となっているところが、最後のサビでは「そうだ、逢おう」になっていることだ。ちなみにCANDY~のほうではすべて「逢いたい」で統一されている。

 「会う」と「逢う」。広辞苑で確認すると同じ意味とされていた。しかしそれなら統一するはずなので、あえて違う字を使っていることには意味があるはず。辞書にはない俗語的な感覚も取り入れて考えてみたい。常用漢字でないという印象からか、「逢う」のほうが重みがあり、たとえば街で偶然ばったり会ったというときに「逢う」は使わないだろう。何か特別な意味のある出会いや、デートなどでお互いが行こうとしたような場合に使う言葉だ。

 まず一回目に「会う」を使っていることに注目したい。こんなにも歌詞をリンクさせているのに「逢いたい」に「会おう」と返しているのは不自然である。ただ言われたことにそのまま返すだけなら、ここでは字も合わせて「逢おう」を使うのが自然だろう。わざわざ書き換えたのは「僕」がアイドルで、実際には「会う」ことしかできないから。そして、それを最後に「逢おう」と書き換えてくれたのは、夢とか現実とか、そんな壁を越えて「逢おう」と言ってくれる、アイドルの「僕」からの希望に満ちたメッセージが込められているからかもしれない。

 

最後に∞まとめ

ここまでこんなに長くてややこしい文章を読んでくれてありがとうございます!!!

読んでくれた方いるのでしょうか。。

 ここで全体を簡単にまとめ。

CANDY MY LOVE

→主人公(キャンジャニ)が想い焦がれる「あなた」への想いを歌った曲。相手はアイドルなので、コンサートに行って会うことはできても、逢ったことがあるかと聞かれたら答えられない。ほほえみをくれるのはあなただけで生きている意味もあなたなのに、リアルの世界では逢うことができない。でも生きることはリアルだから、あなたから強く生きる勇気がほしい。MVの羽は非現実の象徴。七色の光はエイトのオマージュでアイドルの表現。

 

夏の恋人(アンサーソング

→その呼びかけに答えた曲。現実で言葉をかけてあげることはできないし触れられないけど、そんな逢えないファンのことを愛しているし夢の中で捧げるし、生きる勇気は僕があげるよ。最後はそんな夢や現実の扉を超えて「逢おう」と言ってくれる。

 

 実は最後にこの「夏の恋人」には、歌詞カードにないセリフが入っているのだけれど、それは歌詞カードにないのと、内容からして半分ジョークかなと思ってるのですが。。それはまた別で書きたいと思います、

 自分用のまとめとしても書いた記事でしたが、この解釈で聴くと切なくて泣けるのでぜひあらためて聴いてみてください!お読みくださりありがとうございました(・_・、)